アニメ『エガオノダイカ』がよくわかるお話【補足】
それは遠い星の、2人の女の子のお話。
1人は王国の姫、もう1人は帝国の一兵士。
決して出会うことのない2人が巡り合ったとき、
世界は音を立てて変わった……。
タツノコプロ55周年に作られたオリジナルアニメ『エガオノダイカ』は残念ながら爆死アニメである。どんなに熱く語っても、その事実が変わることはない。
【ささら・つづみ】アニメ『エガオノダイカ』がよくわかるお話【CeVIO】 - YouTube
もくじ
- よくできた演出と受けない理由+ちょっと長い語り
- ユウキが天に祈れば恵みの雨が降る
- ロボットじゃなくてもよかったんじゃね?
- 無用な混乱を……しない?(追記)
- エンターテイメントしていない?(追記)
■よくできた演出と受けない理由
この作品の話題で誉め言葉を聞いたことがないので、まずは良かった点から語っていきましょう。誰も気づかないのか、あるいは僕の思い過ごしなのかわからないけど、演出は本当によくできているんです。お世辞抜きで思ってます。
ひとつ例を挙げると、第4話でリーシュから住民を避難させるシーンなんかよくできてます。視聴者なんて、自分も含めてみんなボンクラばかりですから劇中で1回か2回発言した固有名詞なんて覚えてません。なので何が起きた街なのかを軽く回想し、現在の姿を見せます。
その際普通の街では絶対に見かけない謎のモニュメントを用意します。平和記念に作られたと一応説明されますが、それを視聴者が理解する必要はありません。
これから悲劇が起こる街はここであるということを視覚的に印象付けているのです。
#このモニュメントが、まぁ……はっきり言ってダサいんですよね(´・ω・`) 現実にもこういうわけのわからないモニュメントってたくさんあるのでリアルなのかもしれませんが。奇麗さやカッコよさではなく、いかに記憶に残るかに重点を当てて意図的にセンスを外してデザインしたんでしょうね。
モニュメント=リーシュという印象付けをすることでシーンが変わってもどの街の話をしているのかを理解できるようにしてあります。
そして極めつけは平和の象徴をわざわざ倒壊させること。
これをすることによってユウキの判断がただ犠牲を増やしただけでなく、取り返しのつかない失敗であったことを演出しているんです。
#このシーン、ゲラゲラ笑って見てました。血を流すよりもよっぽど痛ましく、効果的に演出してることに気づいて、1周回って笑いが出ました。
それからロボットの表現も「うまい手抜きしてるな」って感心してました。
破壊される場所をクローズアップで映して、少ない労力で派手さとリアリティを表現しているんです。また出てくるロボットは量産機なので誰が乗っているかは前後のカットのつなぎと動きだけで表現してます。とはえどれもこれも昭和のころに完成された工夫なんですけどね。
ま、技法に新旧はないですし、限られたリソースをやりくりした努力の跡と僕は見ていたんですけどねぇ……。どうやら世間の評価は逆だったようですね。
弾丸が当たった個所に傷や汚れがつかないことをやり玉に挙げて「リアルじゃない」っという声の方が大きかったですね。CG技術向上で水準が上がったというのは理解しますが、全部の作品でそれやらなくちゃいけないんですかね?逆にそのひと手間をかけることで批判してた人の評価が180度変わるんですかね?違いますよね?結局ひとつ気に入らないところがあるから重箱の隅をつつくようにイチャモンつけてるだけですよね。逆にひとつ気に入るところがあれば些細なことと擁護するんですよね。
今現在僕がしているように(・言・)
#自分で書いててくだらない擁護だなと思うし、いい年したおっさんが架空の敵と喧嘩しててみっともないなと思うのですが、今回の動画を作ったきっかけがここだったんですよ。お暇な方は生暖かい目でゆる~~くお付き合いください。
どんなにいいところがあっても気づかれず、ボロクソに言われて慰み者にされるこの現状はどうして起こるのか?
答えはいたってシンプル。
つまらないから。
この一言に尽きます。
娯楽があふれてる昨今、スルメを噛むようにつまらない作品の面白さを理解するまで繰り返し見る必要性はまったくもって無いです。
だからって視聴者が理解力を養わなくていい理由にはなりません。
#その訓練を『エガオノダイカ』でやる必要もないですがね(´・ω・`)
娯楽って湯水のように無限に湧いてくるものじゃないと思うんですよね。
娯楽を最初に発信する「一次生産」をしている人は、それはそれは一生懸命考えて作ってるわけですよ。一生懸命作れば必ず面白くなるわけじゃないですけど、だからってけなしていいわけじゃないんですよ。「〇〇が面白い」だけを言い続けてれば流行に便乗した安易な「二次三次」が量産されるわけで、本当の意味での娯楽がどんどんなくなっていきます。
それに何より他者を貶めたところであなた自身が偉くなるわけじゃないんですよ。であるならばつまらない悪口を叩いてる暇があったら己の見識を広める努力をしたらどうなんだと!
娯楽を食い潰してるのは、何の苦労もせずにただ享受してるだけのくせに文句だけを一丁前に吐く視聴者に他ならないんです!
……あー、なるほど。こうやって意識の高さをむやみに振りかざすから“高二病”と鼻で笑われるのか。
この“高二病”って言葉を知ったことも含めて、ホントいろいろと考えさせられるお話でした。話がそれたついでにちょっと余談をします。
僕はコレを“ロック”なんだと思ってましたよ。ロックの根源って世間に対するままならぬ想いじゃないですか。だから「盗んだバイクで走りだ」したり「言いたいことも言えないこんな世の中」と毒を吐いたりするわけじゃないですか。自分の認識する世界と世間の食い違い、齟齬、軋轢。そういったものを拗らせたのがロックだと考えます(もちろん他のとらえ方もありますが、ここではロックを語りたいわけじゃないので割愛します)。
そもそもロックミュージックって売れない音楽の代名詞的に言われてた時代があったんですよ。その反社会的な内容から大人たちは「ロックなんか聞いてるんじゃねぇ」と頭ごなしに否定し、その反発から若者はロックに夢中になっていったんです。そして、その中の一握りが大衆の共感を得てヒット曲へと成りあがっていったんです。
そうです。受ける受けないの境界は「共感できるかどうか」なんです。売れるロックと売れないロックがあるのは共感できるロックとできないロックがあるにすぎないんです。だから高二病を拗らせた人はロックの素質が十分にあります。あとはそれを共感できる形で表現するだけです。
#まあ、まずは他人を見下す態度を改めるところからスタートかな(´・ω・`)
僕は『エガオノダイカ』が好きです。つまり共感してるんです。
「どこに( ̄ー ̄?)」
と真顔で問いただされそうなので一例をあげます。動画でもチラッとだけ書きましたが、第6話のピアースがポイントレーザーを照射するシーンです。
「うんうん。わかる。俺でもそうする!」
と食い入る勢いで見てました。うん……わっかんね~んだろうなぁ……。
あのレーザーは「ここに攻撃してくれ」という要請なんです。自分が死に瀕する怪我を負ってもなお帝国の勝利のために「コイツだけは殺さなくちゃいけない」という決死の覚悟なんです。第6話は王国側の視点で描かれているので帝国兵のセリフはうめき声ひとつとてありません。それなのにピアースの覚悟をたった数秒で描くのって本当はすごいことなんですよ。
それから救出に向かうステラ。時間稼ぎをするゲイル。しかも撤退するときに追撃されないようにハロルドのホバー翼を切ってから行く抜け目のなさ。撤退時には背を向けるゲイル機のカバーに入る連係。セリフがないはずなのに会話が聞こえてきそうです。繰り返しますけど実はすごいことしてるんですよ。気になったらこのシーンはもう一度見直してください。
でもまぁ、多くの視聴者が見たいのはこういうところじゃないんだろうなぁ(´・ω・`)
■ユウキが天に祈れば恵みの雨が降る
テラフォーミングをしたナノマシーンは自己増殖をする。ということは増えすぎて弊害が起きる可能性もあったと考えられます。であるならばコントロールする手段があったとしても不思議ではありません。それは技術がなくなった後も有効でなければなりません。なのでこの星に移住した先文明の人はコントロールキーを遺伝子に組み込んだわけです。それは脈々と女系に伝わり、ユウキ・ソレイユがそのひとりであるというわけです。ひょっとしたら天災を回避する程度の気象コントロールぐらいできるんじゃないかなっと……。
どうしてそんな途方もないことを考え出したかというと、ラストシーンの説明をつけるためです。
第9話の説明だとクラルス停止のメカニズムがちょっとわかりづらいのです。ナノマシンを過剰消費しすぎたのか、あるいはクラルスがオーバーヒートしたのか。どちらにしても時間経過とともに元に戻るわけですよね。
ってことは同じ現象を惑星規模でやっても元の木阿弥です。
将来にわたってクラルスを使用できなくするのが本来の目的であったのなら、ナノマシンのプログラムを書き換えてクラルスと反応しないようにしなければいけません。先文明の人がその手段を残していたとしても不思議ではありませんが、そうコロコロ書き換えられても困りものです。こういう大事なことは管理者権限の元行われなければいけません。そのマスターキーも遺伝子に組み込まれていたのではないでしょうか?
おそらく最初の研究者は3人いたんですよ。その子孫がそれぞれソレイユ、グランディーガ、ベルデの国を作ったんです。そして管理者権限の実行には責任者の過半数、すなわち3家の子孫の内2家以上の承認を必要とするのでしょう。その方がセキュリティがしっかりします。
ユウキ・ソレイユは言うまでもなく責任者のひとりです。そしてステラ・エトワールとレイラ・エトワールは現皇帝によって地位を追われた王家だったのではないかと考えます。そして帝国軍参謀長のアイネ・フリートは今は亡きベルデ皇国の皇族。帝国に潜入して復讐の機会を狙っていた…(フリートというのは偽名でしょう。ソレイユ(太陽)、エトワール(星)ときたらリュネ(月)?)。この4人の内2人で同時に起動スイッチを押す必要があった(しかも血縁関係のない組み合わせ)。
という設定があったんじゃないかな、と想像したんです。
半分以上は妄想ですがプログラムの書き換えはあったんじゃないかな?そうすれば動画内での疑問視した「新しくジェネレータを作ったら起動するか?」に対する解が得られます。それ以外で説明しようとすると「地中にある未発掘のクラルスラピスを含めて惑星すべてのクラルスを使い物にならなくなるレベルで焼き切った」ということになります。
……どっちでもいいんですけどね(´・ω・`)
■ロボットじゃなくてもよかったんじゃね?
動画でも少し触れましたが「ロボットもの」と紹介される割にはメカニックを描写するシーンは少ないです。例えば開くシャッターの隙間から差し込む光がメカのシルエットを徐々に映し出すとか発進シークエンスとか、そういうの。先にもロボットの描写を「うまく手抜きしてる」と感心してましたが、手抜きしてることには変わりないんですよね。作り手側も「ロボットもの」という意識がなかったかもしれませんね。
思うに兵器はパイロットむき出しのホバーバイクとかでも良かったんじゃないですかね?そしてバリアとビームで応酬するんです。これなら新型クラルスの出力の高さを視覚的にわかりやすくできたんじゃないかなと。
#それからパイロットスーツはボディラインがわかるぴっちりしたヤツで、なぜか女性隊員のほうが多くって……予算降りると思うよ┐(´ー`)┌
別に「僕のアイデアのほうが面白い」とかいうつまらない主張をしたいわけじゃないですよ。こういうのは後出しだから出てくるのであって作ってるときには、その人たちの思惑があるものです。キービジュアルが映えるとか、戦闘シーンの描き方に応用が利くとか、スパロボでワンチャンあるとか?
テウルギアのデザインは王国、帝国ともに好きだったので、パッとしなかったのが残念です。
他にも「クラルスが意味するものは何だったのか?」とか「どうして年端もいかない少女を主人公にしたのか?」とかいろいろ考えたのですが政治色が強くなってきたので割愛します。書いてて面白くなかったし、読んでも面白くないでしょう。
#っていうか今まで面白いもの書けてたか?動画に収まりきらなかった感想を書いてるだけとはいえ、結局ネガティブな内容のほうが多いしな(´・ω・`) こんなはずじゃなかったのに……。
最後に動画内で言ってた「好きだけど面白くない」の意味だけ答えておきましょう。好きじゃなければここまであれこれ考えません。しかし面白いと褒めることもできない。そんなジレンマです。そして面白くないと思ってしまう最大の原因は腑に落ちない最終回です。
製作サイドの事情を察することはできても、結局僕も一視聴者なので作品という結果でしか評価はできません。実に惜しいことです。
ポコタンは子供のころからお世話になっているタツノコプロをこれからも応援しております。
追記分
■無用な混乱を……しない?
コメントでツッコまれてましたが、う~~ん。そんなにわからないかな(´・ω・`)
たぶん余計なことを考えすぎなんじゃないかな?王国側のエピソードの時は帝国のことは考えず、逆に帝国側の時は王国の事情に気を取られずに見ていればいいんですよ。時系列も無駄に前後しないので素直に順番通りに見ればいいんですよ。図にするとこんな感じです。
第9話と第10話だけは時間軸が被りますが、どちらも重要キャラの死ぬお話なので仕方がないですよね。理解の妨げになる程のことではないでしょう。
#むしろ残り2話しかないのにのんびり話を進めてていいのかって不安のほうがもたげてきます(´・ω・`)
第5話の「王国の強いテウルギアに搭乗しているのは誰か」ってところなんかは割りと疑問に思う人が多かったと思います。特に放送当時は「サイボーグ・ヨシュアが乗ってる」といった流言飛語が飛び交っていました。第6話でルネが怪我をしていたことで彼女のテウルギアだったとわかるように作られていましたが大事なのはそこじゃないんです。見るべきポイントは第5話は帝国側の話だってことです。
膠着した戦線を切り開くためにビュルガー分隊は夜間の奇襲を命じられる。その際いくつかのトラブルがあり、ケガの功名でゲイル隊長への不信感が解ける。また視聴者にはステラの知られざる一面を視ることができる。
それだけわかればいいんです。ドラマはそれしか描かれていません。変わりつつある分隊の関係。変わらず続く王都への進軍。そういった余韻を次回以降の楽しみにしておけばいいんです。
見方がわかればなんてことないんだけどなぁ……。こんなこと言ってると「お前にとってはそうなんだろうな」って返ってきそうですが、些細なことにこだわらず、物語のあるがままを見ればいいと割り切れば、決して難しいお話じゃないです。
エピローグを除いてな(´・ω・`)
■エンターテイメントしていない?
ロボットに乗って戦争をし、両陣営を描いている。この条件を満たす他作品を見ると戦闘中に無線通信しているわけでもないのに相手兵士と会話するシーンがたいていありますよね。ましてや密閉したコックピットで相手が見えていないにもかかわらずお互い認識してますよね。現実的に考えたらありえないですよね。
実際の戦争でも何度か相まみえると「アイツかな」ぐらいにはわかってくるそうですが、会話をする余裕はないですよね。第9話第10話のハロルドとゲイルがちょうどそんな感じで描かれていました。つまり『エガオノダイカ』はリアル寄りに描写されているわけです。問題はそのリアルの追及が面白さにつながっていないことです。なぜこのようなことが起きるのか?
時代劇ですらチャンバラの最中に相手と会話をすることがあります。息を抜けば相手の真剣が自分に振り降ろされるのにもかかわらず。また命をかけた戦いをしている最中に言葉を考えている余裕なんてあるでしょうか?現実的に考えて“できっこない”ことなんですよね。
しかし、その“できっこない”をしれっとやるのがエンターテイメントなのです。
では『エガオノダイカ』はエンターテイメントしていないのか?「できっこないことをしれっとやる」という点においてはその限りではありません。例えば第8話の冒頭でちょろっとだけダイジェストされた姫様無双のシーン。「散発的に襲撃にくる敵の戦力を正確に読む」とかいう予知能力めいたことをさらっとやってます。恐らく衛星が使えないであろうこの世界観で、どうやったらそんなことができるのか?捕虜になったイザナがスパイをしてて情報をリークしてたんじゃないかと疑ったぐらいです。実際には自国内の出来事なので、ちゃんとした情報網があったのでしょうが……。
このようにユウキちゃんがミラクルな活躍をしているシーンはさらっと流されていたわけです。これをエンターテイメントと呼ぶには情緒がないですよね。まあ、全編通してそんな感じなんですよ。
では動画で言ってた「ドキュメンタリーとしての楽しみ方」はどうなのか?まずは面白いドキュメンタリーはどんなものか考えてみましょう。現実の話でありながら物語めいた成功を収めたりするのが面白いドキュメンタリーのひとつかな。この観点で『エガオノダイカ』を振り返ってみましょう。
帝国の進軍は王国にとって絶体絶命の危機であった。その圧倒的な戦力差に立ち向かうために新型クラルスを導入するも、それは環境破壊を加速させるものだった。国を、人々を、星を守るため、少女は決断をする。クラルスの停止。それは人類にさらなる試練を課すものであろう。しかし少女はその先にある明るい未来を信じ、祈り続けた……。
物語の筋だけ見るとそこそこいいピースがそろってると思うんですよね。これをドキュメンタリー風に仕上げていくにはどうしたらいいか。主人公の努力はことごとく空振りに終わるが、それでもあきらめずに続けていく。その過程で理解者を得ていき、最後には大きな障害を乗り越えていく。こんな感じですかね。
主人公の努力が空振りに終わるの部分は、もう見るに堪えないほど描かれているので説明不要ですね。
理解者を得ていく過程はちょっと説明が必要です。ユニとルネの双子は第2話のヨシュアの死をもって。イザナは第6話のユウキが有無を言わせぬ指揮を執る姿を見たとき。ジェイムズは第8話、反抗的な態度をとる辺境伯を許す度量の深さを見たとき。ハロルドでさえもユウキの作る未来を信じようとしていました。
そしてレイラ。彼女は帝国の内情を一番よく知っている。それこそ感情論なんかじゃ帝国を変えられないことぐらいわかりきっているのでしょう。だからこそ最後まで反対の立場をとる(とっていた?)のです。ユウキが帝国を変えうるに足る力を得るその日まで。
このように理解者を得る過程は物語の中で描かれています。惜しむらくはそれが視聴者の心に届くほど濃厚な描写ではなく、さらっと流されてしまったことでしょうか(´・ω・`) 監督はこういうのを描くのが恥ずかしいんでしょうかね?
しかしこれらは些細な問題です。やはり一番の難所は「大きな障害を乗り越える」描写のなさでしょうね。世界中すべてのクラルスを停止させるなんて暴挙をしたのですからユウキの信頼は一度地に落ちるでしょうね。帝国兵も帰る足がないから居残っているのであって、王国の小娘の言葉なんかに耳を貸さないでしょう。
それが半年足らずで停戦にまで持ち込めたのだから、どんな魔法を使ったんだという話ですよね。
劇中の情報から想像できるのは動画でも言ったように復興を通じて触れ合い、少しずつ心を開いてもらうという地道なもの。ユウキに残された手札は気合と根性、それと笑顔だけなのだから。サブタイトルの『笑顔の代価』もこのように解釈するべきなのでしょう。
#心無い視聴者の中には姫様の暴挙の結果、笑う人がいなくなってしまったのが代価だと解釈した人もいるようですが(´・ω・`)
とはいえ、これも僕の希望的観測に基づいた解釈のひとつでしかないので正解はわかりません。ここまで真剣に見直してなお「わからない」と言われてしまう作品作りもどうなのかと思わないでもないですが、余韻は視聴者の胸に託すって作りも一般論としてはアリだと思います。で・す・が、この作品をドキュメンタリーとして楽しいものにするなら、やはり最後の「障害を乗り越える」はスルーしちゃダメですよね。そんなことしたら逃げですよね。
だからダイジェストにしてでも
ねじ込んだんですよね!(`・ω・´)
ホント、「たられば」を言っても仕方ないのですが13話でできていればなあ……。もうちょいスッキリと終われたと思うんだよな。第13話のタイトルはもちろん『笑顔の大華』ですよ。メインタイトルをカタガナにしたのはダブルミーニングとかあるのでしょうし。
このように視聴者の心に届くよう熱量を込めて描いて欲しいところはさらっと流し、最大のカタルシスが得られるであろうラストシーンがダイジェストになってしまった。だからエンターテイメントとしては火力不足、ドキュメンタリーとしては手落ちという中途半端な結果になってしまったのでしょう。好きなんだけどなぁ(´・ω・`)
#なおエンターテイメントとドキュメンタリーは多分両立できます。が、ここは映像論とかを語る場所ではなく、そもそも製作者の趣旨がそこにあるかどうかもわからないので割愛します。
Q:このアニメはおススメですか?
A:僕は公平な人間でありたいと思っているので正直に言いますと、お勧めはできません。
もう少し具体的に言うとロボットアニメを期待しているのであれば、ロボットはさして活躍しないのでご期待には応えられないでしょう。
ユウキやステラのようなカワイ子ちゃんを愛でたいだけなら、それは第1話で終わっているのでお引き取りください。
でもキービジュアルで推してるのはその2点なんだよなぁ(´・ω・`) う~ん、この……。
Q:ホントはお前アンチなんじゃねーの?
A:『ドラゴンボール』の筋斗雲に乗れるぐらい心の奇麗な僕はあまり嘘をつきたくないんです。
この作品を勧めようものならキービジュアルのようなだまし討ちをしなくちゃいけないんです。
それでは作品の本質は語れず、結果的にアンチと同じようなスタンスになってしまうのです。
Q:結局何が面白いの?
A:何度も繰り返すようですがおもしろくはないです。
ただ考えさせられるのです。
平和とは何か?どうして世の中はもっと単純に動いてくれないのか?
この域に達するとユウキ・ソレイユというキャラが、ステラ・シャイニングというキャラが好きになってきます。
なのでじっくりと腰を据えて考えられる人なら視聴してみるのもいいかと思います。
ただし「考えること」と「何か得られる」は同義語ではありません。
自己責任でお願いします。
なお僕の動画を見た後にこの作品を視聴しても同じ考えにたどり着くとは限らないでしょう。
むしろ別の考察をすることでしょう。
そのことで語らいたいことがあったらいつでもコメントしてください。